2011年12月25日日曜日

浅草の友へのメール


2011年。大震災の年が暮れようとしている。震災後在京の友人へ実際に送ったメールを下地にして書いたものを、ここに転載しようと思う。
GREEブログ「パーちゃん日記」http://gree.jp/par_chan/blog/entry/564803952 
GREEでは当然ゲーム中心のお気楽な話が主なのだけれど、震災後まだ三週間ということもあってこのような記事にも案外(失礼!ごめんなさい)なアクセスや反応があったことを思い出す。いま読み返してみると、なにか遠い昔のことのように感じる。ああ、あの時、こんなことを考えていたのだなぁと…
GREEは会員登録をしない限りアクセスできないという不便さがどうしても付きまとうけれど、Bloggerならばそういうこともないし、Twitterとの連携もスムーズにいきそうな気もしている。
ある程度の長さのものでいままでに書いたてきたものや、これから書くであろうものを、少しずつここにUPしてみようかな、などと考えている。

追記:GREEへの投稿が 4/1 なのは偶然です。エープリルフールですが。念のため。
よく嘘つきだといわれるのはもとより自分の不徳のなすわざなのだから、結局あきらめるより仕方がないのだろうけれど。


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前略。
メールありがとうございました。
すいません、いつも返信がおそくなってしまいます。
状況は深刻ですね。拝読後いろいろと考えさせられてしまいました。

先日、お電話でもお話しましたが、昨年暮れから家内とふたりで宇都宮に蟄居しております。基本的に地元にいると彼女の不安障害が一向に好転しないのです。
田舎はいろいろと人間関係が濃いですからね。
岳父、丈母ともなんどもこのことに関しては話をしてきたのですが、結婚以来の年月をもってしても理解を得ることは難しかったということになるのでしょうか。もっとも僕の力不足なのでしょう、昨秋9月末にどうにも我慢できなくなって2人家を飛び出してしまいました。
東北、信越、北陸に居場所をもとめて放浪しましたが、結局腰をおちつけることになったのは県都宇都宮。岳父、丈母ともにやはり高齢ですので、結局つかずはなれずの場所を選んだという折の今回の大震災でした。岩手、宮城、福島に居をもとめていた可能性も十分にあったのです。ただただ運命の不思議を思わずにはいられません。あの美しい東北の街々、人なつっこいあの人この人…無念で胸が痛みます。

観光都市浅草の惨状は想像を絶するものなのでしょうね。近年の浅草の景気を支えていた外国人観光客は「FUKUSHIMA」で当然みな日本を敬遠するでしょうし、戦前から浅草あるいは上野ををもっとも身近な東京と感じてきた北関東、東北の人たちは直接あるいはなんらかの形で被災者になってしまったわけですから。
あの二天門の大将も福島県出身です。お姉さんが屋内待機区域にいらっしゃるとききました。幸い電話連絡は常にとれているようですし、ご家族の皆さんはご無事とのことですが…

別段これといった産業があるわけでもないのに栃木県の県庁所在地として宇都宮がやってこられたのは、明治からこのかた陸軍でもってきた街であるということは案外知られていない事実です。「餃子の街」云々というのも戦後大陸からの引揚者が多かったということにしくはありません。
市の南に駐屯地があって、毎朝早い時間からガラス窓を爆音で震わせながら自衛隊機が低空を北へ向かっていきます。ことさら低空をすぎていくように感じる夜明けは、隣県でもある福島の地で何事かあらたに深刻な事態が進みつつあるのかと、日ごろからの不眠に悩まされながらも明け方にようやく寝付くことのできた妻の寝顔を眺めながら、ぼんやりと何所にもうっちゃり様の無い思いに、寝床で躯をかたくしているしかなかったりします。転地の効果でしょうかここ数ヶ月小康状態にあった不安障害が、震災からこのかた再燃してしまい急遽こちらの精神科に通うようになってしまいました。すこしずつ落ち着きをとりもどしつつはあるものの、やはりと言った感が正直なところです。日々の不眠と不安はもはや当然の宿痾としか言いようがありません。

3月11日の本震は震度6強。いままでの人生で経験したことのない強い、長い揺れでした。

当日の揺れを持ちこたえた古い建物やブロック塀、この地方特産の大谷石の外壁などが、その後くりかえされる余震で崩れたり剥離したりするのを日々目にします。

震災からちょうど一週目、彼岸中の金曜日、近所のお肉屋さんに買い物に行ったおりに、お嫁さんが出産のため里帰りしていた石巻で被災したときかされました。幼いお孫さんも一緒だったそうです。避難所にいると一度メールがあってからは、その後まったく連絡がとれなくなってしまったということでした。交通網の分断や規制でどうにも手段が無い中、息子さんは或るボランティア組織にどうにか参加せてもらえたそうで、ようやく翌日からその資格で現地に入ることができるのだと言っていました。おかみさんが見せてくれた記念写真には幸せそうな家族の姿がありました。親父さんの揚げるコロッケが立ち話の間に真っ黒になってしまって…

普段は気楽な一人暮らしを謳歌しているお隣のおかあさんのもとにも、姪っ子ご家族が福島県いわき市から疎開してきました。
通り沿いの不動産屋の店頭に貼り出してある物件情報をのぞきこむ家族連れ。
市内のビジネスホテルはどこも避難してきた人たちでいっぱいだと大家さんが言っていたのを家内がきいてきました。
たぶんにもれずドーナツ化で過疎化してしまっている市街中心地のこの地域に、震災以降かえって以前より子供の笑い声が響いたりするこのごろです。どんなに恐ろしく不安な時間を小さな心で耐えてきたのだろうかと思うと、突然胸を突かれたようになってせつなくてなりません。

宇都宮は東北の入り口なのだなとしみじみ思います。

繁華街にある知人のお店では震災の翌々日におにぎりの炊き出しをていました。仙台にいる母親と兄家族との連絡がやっととれたというばかりで、内心の不安は計り知れない状態であったと思います。「うじうじしてても街が暗くなっちゃうからさ」と彼女は気丈に言っていたけれども。

計画停電のなかキャンドル・ナイトを楽しむお客でにぎわうお店。
再会に無事を喜びあい抱き合う人々。
震災後のガソリン不足ににわかに活気立つ古いアーケドの商店街。
店の前でテイクアウトの惣菜や弁当を売り始めたあの店、この店。
それを買い求める人々、「がんばろうね」とかわす言葉、笑い声。
スーパーで買占めに奔狂する40~60歳台の大人の姿に「みっともない」と意見するたのもしい女子大生達。
そんな買い物の途中「ご無事でなにより!また来てよ。ね!」と声をかけてくれたのは駅前の老舗の焼き鳥屋さんだったりします。


3月18日 9:00
77
4.6
3月19日 13:15
16
4.9
3月20日 13:10
10
5.6
3月21日 14:10
13
12.2
3月22日 14:00
15
10.3
3月23日 13:15
56
9.3
3月24日 12:45
108
9.3
3月25日 7:00
36
7.6
3月26日 7:00
18
6.0
3月27日 7:00
12
5.2
3月28日 7:00
10
4.9
3月29日 7:00
9.9
5.4
3月30日 7:00
8.1
3.4
3月31日 7:00
9.0
3.9

上段が放射性ヨウ素(ヨウ素131)、下段が放射性セシウム(セシウム134、セシウム137) 単位:Bq/kg
水道水の放射能測定結果(松田新田浄水場供給の蛇口水)
測定機関: 栃木県保健環境センター
Web
宇都宮市上下水道局より http://www.city.utsunomiya.tochigi...

1986年のチェルノブイリ原発事故当時、亡父はかつての西ドイツに赴任していました。例の現地工場の頃です。
僕が学生時代に渡欧巡遊したのは前年1985年と翌1987年。当時ドイツでのニュークリア・パニックは深く暗い中世をおもわせるような影を若い日の記憶に残しています。
むこう何年か分の国内生産生乳の出荷および摂取の禁止とその金銭保障を西ドイツ当局がしたと現地で聞かされ、事態の深刻さを感じると同時に彼の国の富と知の蓄積の桁違いの大きさに、ただただ驚かされたことがいまでもなまなましく思いだされます
個人としては当時の欧州での報道と市井の人々との会話の記憶と照らしあわせてみるわけですが、絶望的か否かという点に関していえば、今回「FUKUSHIMA」でおきている現実は僕が生来楽天家であるということを割り引いても(もちろん今回の震災はこれ以上ない悲劇的な事態ですけれども)放射性物質の飛散をある程度局地的な段階におさえられているという一点だけを見ても、多くの、これから先に起こるであろう(あるいは起こったであろう)悲惨を回避することができているのではと思わずにはいられないのです。
宇都宮は福島第一原発から140kmあまり、一昨日は夜半嵐のような強い雨が降りました。それにもかかわらず放射性ヨウ素、セシウムの水道水内の含有数値は3/24の時のような大きな変化を見せませんでした。
これは空間へのあらたな大量の拡散や、すくなくとも臨界および核分裂をあらたに生じていないという根拠にするに値するデータだと思います。
海洋や地下水への 汚染の拡大など予断を許さない状況が続いていますけれども「чорнобиль化決定」というお店のご常連の意見は悲観的というよりも少々ヒステリックにすぎるのではというのが、今の僕の正直な印象です。

今週末は木蓮の花がちょうど見頃。
間もなくこちらでもソメイヨシノの開花が告げられるでしょう。
日光連山から飛来する近年にない規模の恐るべき量の杉花粉が、今日も春の大気のなかに満ち満ちています。

なにか諦念にも似た透明な活力がこの街を包んでいるようです。

長文失礼しました。
お元気で。
僕はこうみえても結構しぶといんですよ。

草々。

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